当寺はもと江州長等山にあって崇福寺と称した。 天智天皇7年(626年~672年)の創建による勅願所であった。叡山の興立により承元4年(1210年)冬大僧正公胤が、寺跡を美濃国三橋村に遷した。 後に正中2年(1325年)の秋、法務に当たっていた叡鎮が当村に移して再興した。当時寺の面積は八町四方(1町は約109m)、寺中に十六寺があって、七堂伽藍巍然として隆盛を極めたと伝えられる。 然るに明徳4年(1393年)11月15日火災おこり山門を焼失した。応永年間に至り檀那(檀家)、鶴林院称円禅定門の再興した故をもつて鶴林山称円寺と改めた。寛正5年(1793年)11月、現住覚妙『大和守頼親の玄孫、土方源之尉出家、入道し。文安4年(1447年)住職』 京都東山大谷に詣でて蓮如上人に出遇い、本宗 天台宗を廻して真宗に帰依、直ちに本尊法名を賜わつた。これが中興の開基とされている。
元亀2年5月(1570年~1573年)」の代に石山合戦が起り、門徒を率いて本山防難に向ったが、この留守中の天正2年(1574年)10月、信長の家臣、土方治兵衛なる者が押し寄せてきて放火した。 このため本坊寺中、悉く延焼し寺宝の焼失は数知れなかった。天正19年(1591年)仮堂を現在地に建立、世間ではこれを辻殿と称えた。旧地を距ること約一町余、これが現在の寺域である。本尊は木仏立像の阿弥陀如来である。 なお文中3年9月15(1374年)日宗良親王が当寺に入御せられた際、次の如き御歌一首を詠まれた。 「忘れめや一夜伏屋の月の影猶その原の旅ここちしてとれに」 対し、別当法印発雲が次の加如く報歌し奉つたと云う。 「思ひきやかかる伏屋の露をおきて雲井の月を宿すべしとは」 【出典 とみた町史】
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